歴史探索(9) 素戔嗚(スサノオ)神社

素戔嗚(すさのお)神社。前の艮神社から、すぐ西に行ったところにある。

「素盞鳴神社祇園祭」は、広島県甲奴郡甲奴町小童(ひち)にある須佐(すさ)神社の祇園祭、鞆の沼名前(ぬなくま)神社の祇園祭と並び、備後の三祇園と称されるほどという。。。。らしいが何度も福山に行っているがぜんぜん知らなかった。祇園祭は、7月20日頃に行われるのだがその時期は行ったことがないな~

『備後国風土記』逸文の蘇民将来説話にある「疫隈国社」が、この社とされる。

ところで、蘇民将来(そみんしょうらい)ってだれ?

備後国風土記の逸文の概略は以下のようなおはなし。

旅の途中で宿を乞うた武塔神(むとうしん)を裕福な弟の巨旦将来(こたんしょうらい)は断り、貧しい兄・蘇民将来は粗末ながらもてなした。

後に再訪した武塔神は、弟将来の妻となっていた蘇民の娘には茅(ち)の輪を付けさせ、それを目印として娘を除く弟将来の一族を滅ぼした。

武塔神は速須佐雄能神(スサノオ)を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。

ここから、除災行事として茅の輪くぐりなどが発生したと考えられる。

このときの武塔神がスサノオであったといい、風土記に言うところの疫隈国社(えのくまのくにつやしろ)が、この素戔嗚神社の起源と言われている。

スサノオと言えば、天照大神(あまてらすおおかみ)の弟だけど、乱暴者で高天原から根の国に追放された神として有名。その後、出雲で、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、生け贄として大蛇に捧げられるところだった櫛名田比売(くしなだひめ)を娶り、出雲国を建国した神とされる。因幡の白ウサギを助けたことで有名な大国主命(おおくにぬしのみこと)は、スサノオの6代、7代後の子孫と言われている。

根の国に行く前に、姉である天照大神に会いに行くと言って、高天原に行ったが、狼藉を働き追放されてしまう。

その、狼藉とは、田んぼの畦を壊したり、種をまいた上に重ねて種をまいたり、大神が機織りをしているところに皮をはいだ馬を投げ込んだりというもの。これらは、弥生文化の象徴である稲作や養蚕を妨害する行為と解釈できます。

つまりは、日本神話には、弥生文化に対する縄文文化の象徴としてスサノオは描かれていると考えられるのです。

一般に、縄文文化は、狩猟中心で定住せずに、文化レベルも低かったと言われてきました。しかし、青森県の三内丸山遺跡など、大規模な縄文集落跡を見る限り、栗などの木を植えて栽培して食物を生産し、大規模な集落も形成していたことが、徐々に分かってきています。

時代的には、弥生文化と縄文文化が同居している事は確実で、そう言う異なる文化の接点では争いもあったでしょう。そう言った争いを象徴しているのが、後にヤマトを支配する弥生文化の象徴である天照大神に対する縄文文化の象徴であるスサノオの狼藉ではないかと思うのです。

ヤマト建国以前に大きな勢力を持っていたと思われる出雲や吉備には、関西地方に多く見られる神武以降の遺跡ばかりではなく、それよりもずっと前のスサノオや豊玉姫を祀るところが、そこかしこに見つかるわけです。

こうしてみると、近畿が日本の中心になる以前に、日本の中心だったのは、吉備や出雲の中国地方ではなかったかと。そして、さらにそれより前には、朝鮮半島に近い北九州ではなかったかと思えるのであります。

ずいぶんと、話題がそれましたが、この素戔嗚神社は、町外れにあるこぎれいなところでした。うっそうとした杜をかかえているわけでもなく、すっきりとした平地にたたずんでいました。

ただし、夕闇がそろそろ迫ってこようとする境内は、ぴんと張った空気が感じられました。

拝殿には、立派な龍の彫り物が施されており、撮らせてくださいねとお願いしつつ写真を撮ると、日記の先頭の写真の通り。ぴんぼけぼけ。ありゃ~と思って、何度撮っても、この通り。きっと、龍が激しく身体を動かしたに違いない。

意地になって撮って何とか、以下ように見られるものに。それにしても、こんだけ派手にぶれる写真なんて、撮ろうとしてとれる物ではない。

そして、拝殿の裏には、立派な神殿が。四方に屋根が飛び出す、独特の形をしている。そのまわりは、きらきらの空気と光に包まれて、とてもきれいなところでした。

少しだけ、日本神話についても、ご紹介させて頂きました。みなさんが、神話に少しでも興味を持たれれば幸いです。

ですが、神話と片付けずに、今の自分に繋がっている歴史と何らかの接点があるに違いありません。そこを解明する旅が、まだまだ続くのであります。。。。。

さぁさぁ、どなたが、ご一緒しませんか~~

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