蘇我氏ゆかりの神社を訪問。蘇我氏とは、蘇我馬子、蝦夷、入鹿と一時期は天皇の外戚として絶大な力を持ちながら、大化の改新で、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(藤原不比等の父)によって、入鹿、蝦夷が殺され、歴史から姿を消した氏族。
古事記によると、蘇我氏は武内宿禰(たけのうちのすくね)の末裔と書かれているのに、日本書紀にはいっさい記述されていない。物部氏やその他の氏族は、概ね古事記と日本書紀で、同じような記述がされているのに、蘇我氏だけは、日本書紀において生い立ちが抹殺されているような印象を受ける。
歴史では、蘇我氏は、天皇家を乗っ取ろうとしたために滅ぼされたと習ったが、天皇家に寄生して権力を持っている氏族が、天皇家を乗っ取ろうとするとは、にわかに信じがたい。藤原氏だって、同じように外戚で権力を欲しいままにしたけど、決して乗っ取ろうとはしていない。
日本書紀の記述は、どうもあやしい。
私が、いちばん最初に飛鳥を訪問したのは、中学3年春の修学旅行の時。その時以来、飛鳥寺の裏にある入鹿の首塚が、どうも気になっている。
入鹿は、悪人であって、殺されても当然で大化の改新で成敗されたと歴史では習ったのだけど、それなら、なんで、首塚には、いつでも生花が絶えないのか。
どうもイメージが違う。
何らか、日本書紀の編纂者(=藤原不比等)によって、闇に葬られた何かがあるのでは無かろうか。そんなことを思っている。
そこで、蘇我氏にまつわる神社を回れば、何らか見えてくるものが無かろうか。。。ということで、あいにくの雨模様の天気の中を、入鹿神社、宗我坐宗我都比古神社とまわってみた。
入鹿神社
ほとんどなんにも感じられない。からっとした雰囲気。ただし、左手の茂みの中の蜘蛛の巣だらけの祠には、ただならぬ気配があった。それが何かまでは、分からなかったのだけど。

宗我坐宗我都比古(そがにますそがつひこ)神社
きれいに整備された神社。ここも、すっからかんの感じ。




柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)神社
蘇我氏とは、直接関係がないのだけど、移動ルート上にあったので、立ち寄ってみた。鳥居のすぐ向こうに、左右に大きな木があった。右の木は、もうくたびれてしまって気も発していない。それに対して、左の木からはかなり強い気が出ている。本殿の左側の茂みのあたりでは、何かが感じられた。そこから写真を撮ると、案の定ぶれた。なにかいる。


玉津嶋神社
人麿神社のそばのため池のほとりにあった小さな祠。玉津嶋神社と言えば、和歌山に神功皇后が出向いたときに加護を受けたと言われるところ。時代は、蘇我氏の活躍したときよりももっとずっと昔。神功皇后は、第15代応神天皇の母。大化の改新があったのは、第37代斉明天皇の時代。どちらかというと、こういう古いものの方に、より強く心惹かれるのであります。

結局、蘇我氏にまつわるところに関しては、あまり明確なことは分からなかった。
でも、宗我坐宗我都比古神社の宮司さんから少しお話を聞くことができた。入鹿神社のある小綱(しょうこ)町、宗我坐宗我都比古神社のある曽我町は、元もと蘇我氏の地盤があったと言われている。一方、すぐ近くの百済町は、藤原氏を祀る談山神社の所領である。
近年まで、これらの町は仲が悪く決して結婚は許されなかったという。今でも、お年寄りはその頃のことは覚えているそうだけど、最近はあまり言われなくなったという。以前からも、そこに住む人の間では伝えられてきたけど、外の人に対しては、あまり言うこともなかったらしい。
確かに、蘇我氏は中臣(藤原)の鎌足に滅ぼされたと言って良いと思うので、そんな関係がずっと続いてきたのかもしれないが、1300年以上前のことが、ずっと伝えられてきたという事実は、かなりすごいことだと思う。それほどまでに恨みが強烈だったのだろう。
その後、ちょっとだけ、今井町に足を伸ばした。古い建物が残る一角。奈良町にちょっと煮た雰囲気のところ。でも、あいにく雨が降ってきたので、埴輪まんじゅうをゲットして、そそくさと退散したのでした。


