久高島訪問記 其の5 (1)

- ウパーマにとみぃを弔う -

およそ4年ぶりの久高島訪問でした。その間に、とみぃの訃報があり、私の中での久高島が、ちょっとずつ変ってきた時期かもしれません。

2006年2月

手がけていた仕事がようやく離陸し、ほっと一息付けた瞬間に、久高島に呼ばれた気がした。そう言えば、とみぃの訃報を受けてから、既に2年も経過してしまっていた。久しぶりに訪問して、とみぃが最後の笑顔を見せたウパーマに行こうと決めた。

2006年2月24日(金)

久しぶりの那覇へ

仕事が引けてから、速攻で羽田に向い、那覇に向けて飛立った。この時期、関東では、まだまだ冬まっただ中。当然コートを着ている時期。しかし、沖縄は、真冬といえども、最低気温は13度以下にはまず下がらない。

真冬のコートを着て沖縄入すると、コートが邪魔になる。かと言って、コート無しでは、関東ではかなりつらい。

それでも、関東では、駅まで何とか凌げば、あとは会社は駅前だから、それほどつらくはない。ということで、コート無しで沖縄入することとした。

さかえに帰る

那覇着は20時過ぎ。2001年、沖縄で仕事をしていた当時に愛用していた那覇市楚辺のお宿は、会社の労務厚生費用の削減により廃止されてしまっていた。お宿は、かつて、一度泊ったことのある市場どおりの外れにあるところ。

しかし、チェックインは後回しにして、まず、向ったのは、国際通り牧志交番裏、夜の社交場「竜宮通り」。ここは、昭和40年頃の繁華街と思われ、現在は、うらぶれた場末の雰囲気満載のディープな世界が広がる一角。

通りに入ってすぐ、懐かしい看板が目に入った。

そう。沖縄で仕事をしていた当時、毎晩夕飯を頂いていたところ。山羊料理「さかえ」さん。

小さな扉を頭を下げながらくぐると、沖縄のねぇねぇ、なおみさんが笑顔で迎えてくれた。今日、沖縄入することは、あらかじめ伝えていたので、さつえさんも二階から降りてきて、温かく迎えてくれた。

カウンターに腰を下ろすと、自然と「ただいま~~」の挨拶が口をついた。周りには、当時と変らぬ、地元の常連さんの顔があった。

イザイホーの生き証人?

古くからの常連さん達と話が弾む中で、私の今回の沖縄訪問、久高訪問の理由に話が及んだ。

久高山村留学センタのこと、とみぃのことを話すと、センタ代表の坂本さんは、学生時代にはさかえの常連さんであり、常連のみなとも知合いだという。

さらに、常連さんのNさんは、1978年、最後のイザイホーに、取材陣のADとして参加したことがあると言うことが判明。

そんな関係で、さかえでもとみぃの海難事故の時には話題になったという。

そして、その、とみぃと私が知りあっていたというのも不思議な関係である。

ちょっとしんみりしてしまって、申し訳なかった。

とみぃに再会?

すると、二人のお客さんが入ってきて、カウンタ席に陣取った。うちなーんちゅのおっちゃんとないちゃーの若い(というよりは少女に近い)女性という不思議な組み合せ。

女性は、岡山県から、三線を習いに沖縄に来たとのこと。毎年、仕事の閑散期であるこの時期に、沖縄に来て三線を習っているという。連れのおっちゃんは、三線の師匠。

さかえに来る前に、民謡酒場で、修行をしてきたという。飛入りで、彼女にお客の前で三線を弾きながら歌を歌う訓練をしてきたという。

彼女の名前は、××とみこ。。。。。

「えっ!?」

一瞬、とみぃが脳裏をかすめた。  つづく。。。。

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