- ウパーマにとみぃを弔う -
2006年2月25日(土) つづき
坂本さんとの再会
坂本さんとは、久高山村留学センタの代表を務める方。留学センタの1年目、試行錯誤の時代に知り合った。私が、初めて久高島を訪問した2001年末。
坂本さんは、横浜市出身。大学は琉球大学農学部。学生時代に、全国の農村を回り、日本の食を支える農村の没落を目の当たりにして、再生させなければたいへんなことになると思ったという。
その後、いろいろな経緯があり、久高島で、山村留学センタを始められた。今でこそ、立派なコンクリートのセンタの建物があるが、それも、坂本さんが、建材会社等に掛け合って何とか実現させたもの。全てを独力でなしている坂本氏には心底敬服する。

22時を回りかけたころ、坂本さんがやってきた。やってきて早々、ボトルが空きかけているのを見て、センターに戻り、菊の露の一升瓶を差し入れに持ってきてくれた。感謝。
ひととおり、ご挨拶をした後、先ずは私から口を開いた。
今回は、とみぃの墓参りを兼ねてきたこと。坂本さんには、私ととみぃの出会いや、その後の経緯は、ここにも上げた久高島訪問記其の1を、訃報の連絡を受けた後に送っていた。
おそらくは、坂本さんが、最も気にされているであろう、自分の責任について。先ず、私は、それについて責めるつもりはないし、そんな立場にもないことを伝えた。坂本さんの顔から、緊張が少しとれた気がした。
とみぃの事故、その瞬間のこと
それから、坂本氏は、事故の瞬間のことを克明に話し始めた。
天気の良い日で、ウパーマにセンターの子ども達を連れて、遊びに行ったこと。リーフのフチで、波遊びをしていたら、突然の引き潮によって全員が沖に流されたこと。何とか両手に子どもを抱えてもがいたこと。
抱えた子どもの股の下に手を差し入れ、何とかおぼれないように必死であったこと。もうだめかと思ったこと。しかし、その瞬間、突然、足がついたこと。そして、とみぃだけがいなかったこと。
その瞬間のことは、とみぃの追悼集にも、坂本さんの文章として詳しい。事故後の捜索や家族への連絡、島の人の協力等々。
坂本氏の責任と覚悟
事故を知ったときに、私が、先ず思ったのは、坂本さんがセンターをやめてしまうのではないかと言うこと。センターを開くまで、開いた後でも、島の保守的な考えの方々とは、たびたび摩擦があったことは聞いていた。
でも、坂本さんは、強かった。その後も、継続してセンターを運営している。
そのあたりのことをぜひ、聞いてみたかった。
自己の責任は、自分にあるという。
ウパーマの引き潮が危険であることは、しまんちゅであれば知っている。しかし、坂本さんは知らなかった。なぜか。
事故が起きた当時でも、留学センターは、まだ、久高島には、受け入れられていなかったのかもしれないと。
坂本さん自身が、しまんちゅから、そう言う情報を得られる関係を構築できていなかった。
摩擦、軋轢の中で、十分にセンターを久高島に溶け込ませるだけの努力が足りなかったのだと。
事故の後、しまんちゅと、事故の責任、センターの運営などについて、多くを語り合ったという。それをきっかけにして、センターとともに坂本さん自身も、久高島に、しまんちゅに溶け込み始めたのかもしれないと思った。
そして、坂本さん自身は、事故をきっかけにして、センターを継続する「覚悟」が固まったという。
2002年当時にお会いしたときの坂本さんは、どこか神経質そうなとげとげしさを感じたものだが、今回は、それが少しやらかくなって、それでいて大きさを感じさせるようになっていた。
これからの久高山村留学センタの発展が楽しみである。
話が終わったときは、既に日付が変わっていた。今回、坂本さんと多くの話ができて、本当に良かったと思う。
ちょっとすっきりとした気持ちでふとんに入った。
坂本さんが話してくれた内容で、印象に残ったのは、以下の一節。
坂本「海は、楽しい。山は、登るという試練が必要であり、苦しまないと楽しみが得られない。海は、行くだけで楽しめる。先ずは、楽しいことを実感させることが大切。だから、山より、海の方が良い。」
つづく。。。。。


