久高島訪問記 其の1 (2)

- 神の島で心を洗う -

2001年11月17日(土曜日)

伊敷浜の日の出

久高の日の出は午前6時50分とのこと。本土よりもかなり西に位置するため日の出も遅い。昨夜のバーベキューの参加者に「せっかく久高に来たのだから、ぜひ伊敷浜の日の出を見なさい」と言われていたので、頑張って翌日は朝6:30に起床。みえこさんはまだ寝息を立てているので、起こさぬようにこっそりと寝床を抜け出し、身なりを整えた。外はまだほんのりと薄暗い。施設長の自転車に飛び乗り、薄暗い中を伊敷浜に向かう。

空は晴れているが、水平線のあたりは雲で覆われていて残念。

誰もいない美しい海辺で遙か彼方の水平線をぼーっと眺めるのは、何ともリッチなことだろう。こんなゆったりとした時間を以前過ごしたのはいつのことだっただろう。

7時が近づくにつれて水平線にかかった雲の輪郭がオレンジ色に輝き始めた。時間的には、太陽は既に水平線から顔を出しているはずであるが、まだご来光は拝むことはできない。

と、そのとき、雲の「穴」がオレンジ色の宝石のようにきらきらと輝き一筋の光が一面に射し込んできた。その光を受け、伊敷浜の珊瑚のかけらや散らばった貝殻、ごつごつした石灰岩が一斉に生を受けたようにきらめき始めた。

その光景にしばし呆然として立ちすくみ、こんなこの世とも思えない風景を独り占め出来ることの幸せをかみしめていた。

夢の実現を期待してみえこ帰郷

交流館に戻るとみえこさんは帰り支度をしていた。さて、これから徳仁港に向かおうとした矢先、彼女がにわかにばたばたとし始めた。帰りの船の切符を無くしたと大騒ぎ。皆で探したがやはり出てこなかった。
先にも書いたとおり、乗船券は往復で買うとちょっと安い。

西銘施設長は、「船長に昨日買ったと言って乗せてもらえ」と、なんともアバウトなアドバイス。とりあえず港まで行ってしまえと、交流館の玄関を出たところで、宿泊代を払っていないことにみえこさんが気づく。それまで、誰一人、宿泊費のことなど気づいていなかった。きっと、そのまま彼女が帰ったとしても、誰一人気づくことはなかったばかりか、いいさいいさ・・・ってことになったに違いない。施設長が車で、みえこさんを港まで送るというので、私も見送りがてら同乗させてもらう。

徳仁港についたのは7:55。ニューくだかはエンジンが掛かり、既に数名の乗客が乗り込んでいる。船の乗客には、昨晩バーベキューをした方々も2名。結局、船長への皆の口添えによりみえこさん無事に無賃乗船成立。

交流館からは、面会に来ていた両親が数名同乗。島のおばぁも数名乗り出航準備完了。

ニューくだかは汽笛一声サービスし、久高の岸を静かに離れ、一気に加速しつつ港の出口に向かった。後部甲板では、島影に隠れて見えなくなるまでみえこが手を振っていた。

島の散策

みえこさんを見送って、そのまますぐには交流館へは帰らずに、島の散策をすることに。ただ、昨日の散策とは少々趣を変え「現実」を見るための散策に。

2001年11月17日 安座間港でもらった地図

先ずは腹ごしらえ

久高島には食堂が2件ある。1件は昨晩夕食をいただいたレストラン「とくじん」、もう一つは、そのすぐ向かいにあるプレハブの「けい」。
こんどは、後者に寄る。といっても、時間が早かったため、そば以外は出来ないとのことで、沖縄そばをいただく。プレハブ小屋の中にも席はあったが、外の席の方が明るくて気持ちよかったため、外の席を陣取った。

そばはすぐに出てきた。すると、どこからともなく猫がたくさん周囲に集まりだした。元々猫の多いところで、さらに、住民もあまり追っ払ったりしないからか、すぐ近くまで平気で寄ってくる。

しょうがないなぁと思いながらそばの切れ端を投げてやったら、ふんふんにおいをかぐものの口にしない。それどころか、『ふん!こんなちんけなものしかくれないのかい。どうせなら、その三枚肉を投げてみろってんだ』と言っているような憎々しげな顔をした。なんと恩知らずな猫であろう。

久高島のゴミ問題

久高島を徳仁港から時計と反対回りで海沿いに回ると、徳仁港のすぐ上の丘に車やブルドーザなどのスクラップがたくさんおいてあるところに出た。そういえば、昨日西海岸でもゴミが堆く積まれているところを通った。見て回った範囲では焼却施設は見あたらないし、久高島のゴミ処理はどうしているのか気になった。

そこで、西銘施設長に後で聞いてみた結果は以下の通りである。

島にはゴミ焼却設備がない。ゴミは、船で本島に運んで処理される。
しかし、過去からの粗大ゴミが、島内のあちこちに野積みされて放置されている。特に、塩にやられて穴だらけになって朽ち果てた車が至る所に放置されている。

交流館で生活している山村留学の子供たちが、周辺のゴミを集めてゴミ収集車に出そうとした。しかし、収集車には家庭ゴミではないと言う理由で収集を拒否された。施設長の西銘さん(自身も知念村の役場の人間)は怒り、役場に掛け合っているところだそうだ。

宿泊交流館

全国の過疎の村と同様、久高島の住民は徐々に減っている。確かに、旅行者は自然のままだと喜んでも、住民にとれば漁業以外の産業があるわけではないから、若い人をつなぎ止めることは難しいのだろう。

久高島宿泊交流館は、久高島に人を呼びこむために7年がかりで計画し、ようやく建設された建物である。さらに、グラウンドなどが今後2年間で整備される計画であるという。宿泊施設としては、今年(2001年)
の5月から営業を開始したばかりであり、たいへんきれい。グランドは10年がかりの計画でようやく実現することになる。

しかし、この設備整備以降は、島の開発はストップしようと考えている。島には産業がない。しかし、産業を興すことにより島の姿が破壊されては本末転倒。島の現状の姿を残すことは最優先で考えなければならないと思っている。過去の失敗もある(以下項参照)。

山村留学

新聞記事を参考までに転載する

<2001年11月4日 朝刊 18面>久高島の山村留学存続、来年度は微妙/知念村

不登校などの問題を抱えた全国の中学生が参加し今年四月からスタートした久高島の「山村留学」が、宿泊施設の問題で来年度以降の存続が微妙な状況になっている。現在、子供たちが共同生活している民営の久高島宿泊交流館との契約は来年三月末まで。四月以降は白紙の状態だ。
このため久高区では九月末、臨時総会を開き行政に施設建設を求めることを決定。生徒らが通う久高小中学校のPTAも連名で十月初旬に知念村に要請した。これを受け、村側は近日中に県に措置を要望することにしているが、「山村」の運営が民間であることから該当する補助金メニューが見当たらないなど新たな問題も生じている。

久高島留学センターが運営する「山村留学」には、県内をはじめ東京都や鹿児島県出身などの男女十四人がおり、代表の坂本清治さん(41)とともに暮らしている。

心に傷を負った子供たちが親元を離れ、過疎地で自然や土地の生活に触れながら滞在する「山村留学」。子供には心身のいやし、過疎地にとっては活性化という双方のメリットで全国的に市民権を得ている。久高島は県内で初の試みとなった。

坂本さんと中学生らが生活している交流館も四月に開館した。観光面での島の活性化を狙いに村が建設。区の「久高島振興会」が運営している。「中学のためにも」と全八部屋のうち四部屋をセンターに低料金で賃貸しているが本来の運営に支障が予想されたことから一年契約に限っていた。

「山村」の評判を聞き、すでに来年度の参加問い合わせが県内外から六十件余り寄せられている、以前から「宿泊施設がなければ撤退もあり得る」と坂本さんは語っていた。全国に公募をかける来年一月初めが施設問題のタイムリミットともなる。

これに反応したのが区やPTAだった。人口二百七十人足らずの島は近年過疎化が進行。子どもの数も減っている。「留学組」を除くと地元の中学生はわずか四人。うち一人は来年卒業する。新入生は一人の予定だが、教諭として赴任している親の転勤で入学しない可能性もある。仮に「留学組」が撤退した場合、二、三年生計三人だけの複式一学級も考えられる。

出身地では不登校だった子供たちは全員が皆出席を続けている。並里和弘区長は「みんな登下校時には気軽にあいさつし、区の行事にも参加している。お年寄りなども『自分の孫』という感覚で接している」と語る。

宿泊施設は、島にとって活性化の「浮沈」がかかった問題として急浮上した。施設用地は区が提供することを早急に決めたが、建設までの余力がなく行政に要望することになった。

村はプレハブの建設を想定。約二千八百万円の予算を見積もり、県や国に支援を求めていくことにしているが、その前段で民間運営のセンターに対する補助金の制度がないなどの壁に当たっている。このため補助の対象を区に設定、区の建物をセンターに委託運営する「公設民営」方式の可能性を探りたいとしている。

「『山村留学』の存続は中学の存続に直結するという切羽詰まった状況に置かれている。『山村』は、今や島にとって必要不可欠だ」。並里区長は島の窮状を訴える。(南部総局・金城雅貴)

山村留学と交流館の憂鬱

山村留学では全国の登校拒否の中学生の受け入れている。現在14名。
基本は1年間の留学で卒業後は親元に帰るのが原則。昨年度は募集期間がわずか2ヶ月だったにもかかわらず14名が集まった。今年は新聞広告を出したため、あっという間に60名近く集まってしまい、受け入れ施設の整備に頭を痛めている。

交流館は、山村留学に宿泊施設を提供する立場。本年度いっぱいの契約で14名を受け入れている。来年度の宿泊設備の目処は立っておらず、現体制でせざるを得ないだろう。

山村留学では、1名の生徒に月々8万5千円。両親は年4-5回は面会に来ており、親の負担は相当なもののはず。今回も、たまたま親の面会と重なり、部屋が全てふさがり舞台部屋での宿泊となった。が、それはそれでたいへんラッキー。宿泊費は素泊り半額の2000円。

元々、交流館は、大学のサークルなどの合宿所を想定して整備されている。夏休みなどは、毎晩宴会のような騒ぎとなり、山村留学の環境としては、あまり好ましいものではない。

また、自炊施設はあるが、食事を提供する施設ではない。食事は、島のレストランでとることを基本と考え宿泊施設とは別にしてしまった。
昼食、夕食は、自炊でもあまり支障はないが、朝食に関しては、少々困っているのが実状。何せ、島にはコンビニなどというものは1件たりとも存在しない。よろずやが2件あるだけであり、早朝から開いているわけではないのである。

久高島の大失敗

以前の久高島には、徳仁港から西海岸にかけておよそ400mの美しい砂浜があり、そこでは海水浴を楽しむことが出来た。島の唯一の海水浴場であり、それ以外は石灰岩が浸食した結果出来たごつごつした岩の海岸線がほとんどである。特に西海岸は10mほどの絶壁になっており、海水浴は不可能。東海岸は、所々に砂浜はあるが、2-30m程度の小規模なところが数カ所だけ、しかもリーフのため海水浴は不可能なのである。

10年ほど前に、南西海岸の貴重な砂浜の半分を削り、立派な漁港を作った。計画では、砂浜はそのままの姿で残るはずだった。しかし、現実は、堤防を作ったために潮の流れが変わり、残したはずの砂浜の砂を運び去ってしまった。結果、トイレとシャワーと岩だらけの海岸だけが残り、憩いの場所は失われてしまったのである。

フェリー就航の光と陰

今は、久高と本島をつなぐのは、ニューくだかと新龍丸の2船であり、人と荷物しか運ぶことが出来ない。緊急の場合に出るフェリーはあるが、これもあくまで緊急の場合にしか使われることはない。

2年後に本島との間でフェリーが就航する計画があるという。しかし、こんな小さな道も舗装されていないような島に「わナンバー(レンタカー)
の車」がそこかしこを走るようになるのだけは、住民皆が反対している。
当然である。結局、観光客に対する車持ち込みの規制をどうするかが課題である。

しかし、一挙に運搬量が増加することは、久高島のゴミを本島に運び易くなる一面も持っており、ゴミ問題の解決には大きな期待が寄せられているのもまた事実である。

そして本島へ

島内をゆっくり見て回り、昼食にはレストランとくじんの海ぶどう丼を食べ、午後は西銘施設長と色々なことを語らい、島の時間はあっという間に過ぎてしまった。まだまだ長居したかったのであるが、翌日からの仕事もあり、そうゆっくりもしていられず、帰路につくことに。

交流館から徳仁港までぷらぷらと景色を目に焼き付けるように歩いた。
レストラン裏の乗船券売り場の横の売店には、昨晩バーベキューパーティの席に来ていた「まお」がいたので、あやそうと思ったら、やっぱり逃げられてしまった。糸数奥様が売店の店番をしていた。夫妻の3人の子供が昨夜来ていたが、売店には、さらに2人のねぇねぇがいた。ということは、5人兄弟。昨晩は冗談かと思っていたが本当だったのね。でも、みんな素直でいい子達ばかり。

せっかくだから、来たときと違う船に乗ろうと思い、15:00徳仁港発の新龍丸に。新龍丸は、元漁船と思しき船。ニューくだかのように密閉された船室は数名しか収容できない。それ以外は、船尾と操縦室後ろの外のベンチのみ。海は波高し。

上部甲板に合計15名ほどの客を乗せて出航。港を出たとたんから、激しく波をかぶることに。外人さん3名の同乗者は、最初はきゃーきゃー騒いでいたが、さすがにびしょびしょになると2名は後部の陰に逃げていった。残った外人さんが、ヤッケを貸してくれたのでそれを膝の上に掛けたが、ほとんど焼け石に水で、靴から鞄までびしょびしょになってしまった。後にその鞄は、塩まみれになりスクラップと相成ったのは言うまでもない。

こうして、第一回目の私の久高島体験が終わった。再び訪れることを期待して。

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